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前漢の宦官、李延年とその一族について

「ブログの更新マダー?」と知人らに聞かれるも「明日から本気だすから」と乗り切りつつ
早一ヶ月が過ぎ地震の事とかで世間が左右されていまして、自分もわずかですが
その濁流に飲まれつつありました。
被災された方には心よりお見舞い申し上げます。

さて、今回の内容ですが、
とある場所で発表する内容の一部でして、地震の影響で中止になってしまいましたので
未完ではありますが、少しずつ纏めていければと思いまして記事にしました。

タイトルにもあるように、
中国・前漢時代(紀元前206年~8年)の宦官、李延年とその一族について
つらつらと述べていきたいと思います。

李延年というとパッと来る人はなかなかいないと思いますが、
彼の兄弟である李広利や、前漢の武帝(劉徹 紀元前141年~87年)の
寵愛を受けた李夫人はご存じの方も多いと思います。

李広利は貳師將軍として武帝の大宛征伐や匈奴征伐の総大将として活躍します。
「貳師將軍」とは李広利が太初元年(紀元前104年)に貳師城攻略の時に与えられた将軍号で
漢文には、故號「貳師將軍」(故に「貳師將軍」と号す)とあることから、
常設の将軍号ではないようです。
これ以降『漢書』巻六十一 李広利伝では、李広利のことを「貳師」と書かれていることからも、
李広利だけの将軍号だったのでしょう。

※李広利と李陵の関係
李広利と李陵は苗字こそ「李」であるが同じ系統ではない。
李広利は中山の人(『漢書』巻九十三 李延年伝より)
李陵は隴西の人(『漢書』巻五十四 李広伝より)

閑話休題
さて、話を李延年の李一族に戻しましょう。
まず彼ら兄弟間の構成を整理します。

李延年(?~?、宦官)
李広利(?~紀元前88年、李延年とどちらが年上か不明、貳師將軍)
李季(?~?、李延年から見て弟、李広利から見てどちらが年上か不明)
李夫人(?~?、武帝の夫人。李延年・李広利から見て妹、李季とどちらが年上が不明。傾国の由来)

『漢書』からではこのような兄弟構成であることがわかりました。

李延年と李夫人は元々芸人(楽人、今でいう歌手みたいなもの)であり、
李延年兄妹は新曲を作るたびに周りの人達を感動させたと伝えられています。(『漢書』)
また、李延年は司馬相如(紀元前179年~117年、賦の名人)に詩を依頼されるほどの腕前でした。

その才能を武帝に認められて、また李夫人が武帝の目に留まることにより、
彼ら李一族は武帝のお気に入りとなりました。
後に、李夫人は昌邑王劉髆(りゅうはく ?~紀元前89年)を産みます。
これにより、李一族は正式に外戚となったのでした。

しかし、順風満帆と思えた李一族にも暗雲が立ち込めます。
最初に李夫人が病死します。
李夫人は配慮ある人物であったようで、危篤状態と聞いた武帝が見舞いに駆けつけたのにも関わらず、
布団の中に顔を隠し、武帝の再三の要求にも断りました。
武帝が帰った後に、兄弟たちがその理由を聞くと、
「私は容姿だけで武帝の寵愛を得ました。今病気で乱れた顔を見せること
で我々兄妹達の寵愛を失うことを恐れたのです」

そして、李広利にも不孝な出来事が訪れます。
発端は劉屈氂(りゅうくつり ?~紀元前90年、武帝の甥)に、
昌邑王劉髆を皇太子にしてくれるよう依頼したところから始まります。
李広利は娘を劉屈氂の子に嫁がせており、密接な関係にあったわけです。

この二人の関係を快く思っていなかったのでしょうか、武帝は讒言を受けて劉屈氂を捕らえ、
その一族と李広利の妻子を処刑してしまいます。
この時、李広利は匈奴征伐に赴いていましたが、この事件を聞き匈奴に投降します。
最初は重宝されますが、同じ投降した漢人より上位に置かれたので妬まれて、
後に讒言により処刑されます。
これによって、李広利の系統は絶えてしまいました。

李延年は李夫人の病死後、徐々に武帝の寵愛が薄れていました。
また弟の李季は素行が悪く、宮中に出入りしてはその女官たちと関係を持つなどしていました。
武帝も目に余ったのか李延年・李季一族を処刑します。
李広利の事件が関わっていたかは不明ですが、李一族を除きたい陰謀でもあったのでしょうか。

一連の流れにより、処刑されずに残ったのは昌邑王劉髆の一族になります。
劉髆は早くしてなくなります(紀元前89年)が、息子の劉賀が昌邑王を継ぎます。

武帝の死後劉髆の異母弟劉弗が昭帝として即位します。(紀元前87年)
しかし、この昭帝の治世は長く続かず昭帝が病死します(紀元前74年)
昭帝には子がいなかったために、甥の劉賀が後継者候補として即位します。
ところが、即位直後から不品行が目立ったようで在位27日で廃位にさせられます。
海昬侯に封じられそこで生涯を終えます。
劉賀の死後は海昬侯の世襲は認められなかったものの、元帝の治世(前48年~33年)に
劉代宗が海昬侯を世襲することが認められ、
後漢においても国が残っていることが見えます。(『続漢書』 志二十二 郡国四 豫章)

さて、この李延年の一族で注目したい点がいくつかあります。

1,魏の曹氏に先立つ先例
宦官の血筋でありながら皇帝の位についたので有名なのは魏の曹氏がポピュラーです。
しかしながら、劉賀は在位27日とはいえ皇位についていることから、
宦官が存在する一族から初めて皇帝が現れた事になります。

2,列侯としての存続
劉賀の死後「國徐」として、世襲が認められなかった一族ですが、
再び世襲が認められるというのは例が少ないです。

3,宦官であり外戚でもある側近官
李延年は宦官であり、武帝と寝起きを共にするほど寵愛を受けていた時期もありました。
一方で外戚でもある彼は、異色な人物と言ってもいいでしょう。

また、李延年伝の最後にこんな文章があります。
「是後寵臣,大氐外戚之家也。衛青﹑霍去病皆愛幸,然亦以功能自進。」(『漢書』巻九十三 李延年伝)
(後に寵臣の多くは外戚の家からであった。衛青、霍去病は皆から愛され、
そしてまた自らの功績をもって昇進したのであった。)

つまり、李延年が後々の外戚に一定の影響を与えたということになります。
李延年は官職にも就いており、宦官が官僚として登場した先駆者でもあります。(司馬遷もその一人)
側近官の転換期を代表するにふさわしい人物であったのは間違いないのではないでしょうか。

そして、これら3点を統括してさらに一つの疑問点が浮かびます。
宦官の一族である李一族の末裔、昌邑王劉髆の一族がほとんど冷遇されていないことです。

※後の三国時代に魏の創始者である曹操は、
陳琳という人物に宦官の一族である事を責められた経歴があります。
その原因の一つが、後漢の末期の宦官の多くが
所謂「清流派」という派閥と対立していた事に端を発すのですが・・・
これに関してはまた別項を設けましょうw

閑話休題
宦官の一族でありながら、子孫が皇位に登り、最終的に列侯として一族が存続している様は、
後漢末に宦官という存在が一族ごと否定された事実と咬み合いません。
つまり、「前漢時代には宦官の一族という事が朝廷で不利に働くことは少なかった」
と、言えるでしょう。

以上、李延年とその一族に関しての考察を試みました。
正直なところまだまだ未完でありますので、李一族と関連した人物をもう少し詰めていけば、
何か別な背景が見えるかもしれませんが、側近官・外戚の点に注目し、
この後の同じ立場の人と比べると、共通点が多いのも今後の課題になると思われます。

拙い文章ではありましたが、皆様からのご教授をお待ちしております。
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Author:奥戸ソウマ
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